多様性について考える


生物の多様性、特に土壌内の微生物の多様性が健全な土をつくり、健康な植物を育てる。そして、健康な植物が健康な土壌を育てる。多様性が崩れた土壌は、外部から栄養を補給しなければ植物が育たなくなる。

また、腸内細菌の多様性は、健康な体を育むもとをつくっている。幼少期に確立する腸内細菌の多様性にとって、精製された食品の過剰摂取が、健康な腸を育む大きなリスクとなっているという。ビタミンCの入っているドリンクでは、その成分しか摂取できない。一方、りんごを生で食べれば、バランスのとれた栄養素と同時にりんごに含まれる何万もの微生物も体内に取り込むことができる。その微生物は、生きたまま腸内に届かなくても、その死がいは腸内細菌の大切な栄養となる。旬の野菜や果物、山菜を食べることがどれだけ腸の、言い換えれば体全体の健康を保つために重要なのか想像はつくだろう。

人間社会を考えてみても、同じだ。大量消費とそれを支える産業の効率化によって、作物、家畜、食べ物、消費財のすべてが、画一的で世界中どこでもいつでも手に入るようになり、それらが市場主義的経済社会を埋め尽くしてきた。いつでもどこでも、迅速に、欲しいだけ手に入る時代をつくってきたことが、そこでしか、その時でしか手に入らないものたちを犠牲にしてきた。そんな生活が定着してくると、その土地の固有な生活文化・食文化も忘れ去られてしまう。人は、市場経済の消費者でしかなくなる。

多様性が少ない「皆大体同じ考えの集団」だとしたら、変革を、少なくても変化を受け入れて前進しようとするとき、大きく舵を切ることができるだろうか。変化を持ち込む、悪く言えば異端を知らず知らず排除していないだろうか。「今年も同じでいいよ」「いろいろ変えない方がいいよね」の流れをつくってしまうのが、多様性の少ない集団の特徴だ。

自然界も社会も経済も、多様性を片隅に追いやって発展してきた。その結果、持続可能でない世界をコツコツとつくりあげてしまった。

多様性は可能性を生み出す、エネルギーであり起爆剤だ。とつくづく実感してしまう。

一つひとつ違うものたちがたくさん混ざり合って一つの仕組みを作るとき、その場は、豊かで、強靱で、知的で、回復力に富んでいます。どんな場においても多様性は、たくさんある要素の一つひとつを大事にするよう、私たちに語りかけます。(アリス・ウォータース著「スローライフ宣言」食べることは生きることより)

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