「豊かで便利だけど、幸せじゃない」に気づいた人は、 「少し不便だけど、幸せでかっこいい」を目指す。


便利な食事が健康をむしばむ

 グルテン過剰摂取が危険な過度な小麦文化、36時間腐らないコンビニの食品、ミネラル不足を招くレトルト・冷凍食品(ゆでこぼし処理)、ph調整・濁り防止・カビ発生抑制・変色変質防止・保水性増加などに便利な万能化学物質「リン酸塩」の多量摂取の危険などなど。便利に簡単に食事を取ることにはリスクがいっぱい。

便利と引き換えにしてきたこと

「システマチックで簡単」という時間的効率とお金が中心の経済性の流れにのみ込まれると、人と人とが向き合って対話したり、相談したりする場が消失してしまう。
そこには、非道徳なことも「そういう、仕組みなので」で、済まされてしまう。煩わしさがない代わりに、心のやりどころもない。
お金ですべて可決してしまう、できてしまう環境は、どこまでも他人事ですんでしまう環境。社会環境の悪化や、他人の傷みなど感じない人間を生みだしてしまう。危険な状況が増大する。お金で買えないものがない世界は、お金がないと何も手に入らない世界かもしれない。

コンビニエント(便利)からの脱却の難しさ

「便利で快適が幸せをつくる」を旗印に、70年代、日本に登場したコンビニエンスストア。朝7時から夜11時まで、必要なものがお金さえあれば手に入る。そのうち、その便利さは人の欲に同調するように拡大。24時間、美味しい食事もタバコもお酒も手に入るようになる。夜中に空腹を我慢しながら耐えた70年代には、もしかしたらもう戻れないのだろうか。
でも、24時間、いつでも大量の食べ物を供給するために、ものすごい技術やエネルギーや、きっと化学物質だってたくさん使って、無駄もたくさん生みだしながら、多くの人が人間らしい生活や健康を犠牲にして成り立っているシステムだろう。その代償は、お金の循環でしかない。
コンビニのない生活を想像して欲しい。もしかしたら、困ってしまう一人暮らしの高齢者も存在してしまうかもしれない。でも、70年代より以前は、不便で煩わしかったかもしれないが、みんなが協力し合ってなんとか、不幸でもなく暮らしていたはず。
過度な便利から離れること、当たり前から離れることでしか、気づけないことを大切にしたい。

便利依存症が、人と人をつなげていた街の魚屋さん、八百屋さんを減少させてきた。

合わせて読みたい