2026年07月01日 編集長コラム
どうして、地域にあるものを使わなくなったんだろう? ヘレナ・ノーバーグ=ホッジが教えてくれたこと。
サステナブル通信でも重要視ししている「ローカリゼーション」の提唱者で国際非営利団体 Local Futures 創立者、言語人類学者ヘレナ・ノーバーグ=ホッジが、1975年インド北部のラダック地方を訪れ、そこで目にした自然と調和した合理的な生活が近代化の名のもとに変貌していく姿を綴った名著「ラダック懐かしい未来」に関係した記事とご本人のインタビュー記事を読んで、強く思うことがある。

経済効率が重視され、お金自体が価値になり、お金さえあれば、いつでも、どこでも、時間をかけずに、均一でそれなりに高品質なものが手に入るようになった。ファーストフード、ファーストアパレルしかり。
1980年代後半、一部の経済的発展のために、グローバル経済がひとり走りし、それに遅れまいと、次々に経済の仕組みがそれに準じて大きく変化してしまった。
巨大タンカー、巨大コンテナ船、巨大工場、巨大スーパーマーケット、そして巨大市場しかり。
裏山の木を切っても、儲からない。今の市場経済中心の社会では、ローカル経済だけでは暮らしていきづらい世の中だ。
少し不便だけれど、生きている実感がある豊かさや文化や価値観がどんどん見えなくなっていく。しまいには、理解できなくなってしまう恐れもある。
地域で助け合ってきたコミュニティ、祭り、芸能といった風土などが、必要のない煩わしいものに思えてきてしまう。
ともない地域の風景も次々に変わっていく。
コロナ禍で、今のグローバルな市場経済がかなり無理して維持されていることが分かったはず。そして、ホルムズ危機で、海外から調達するエネルギーに頼る危うさに気がついたはずだ。
でも、グローバルな市場経済による便利さは中毒性を持って生活の中に浸透すると、なかなか抜け出せなくなる性質を持っている。お金さえ払えば、いい物(?)が手に入るのだ。逆にお金がないとなにも手に入らない。だから、ごく自然にいつもお金に支配されてしまう。
お金が地域の繋がりや循環によって成り立っていた仕組みを分断し、少し面倒だが地域と繋がりをもって営まれていた生業としての里山の林業や農業がその豊かさを失いつつある。
不効率を伴う豊かさが、便利さに飲み込まれてしまった。
便利を たくさん 得ると なにかが たくさん 失われる
便利を すこし 捨てると なにかを たくさん 得られる
(非電化工房製品カタログより)
地域にあるものを活かし、自分たちで工夫してつくる暮らし方が、気持ちよく暮らすことに繋がっている。そのことに気づくことが豊かな暮らしの第一歩かもしれない。










